無題35 +病院近くの桜
2009年4月1日 俺と父の日々
3月30日(月) 晴れ
主治医IDさんと内科病棟の担当医師NIさん、
あと母さんと俺で話す機会を作ってもらった。
個室を借りてその4人皆が集まった。
CT画像で父さんの肝臓を見せてもらった。
1月と3月のを比べるとガンだらけになっているのが分かる。
兄からは「2/3がガンになっちゃってた」という話だったが、
俺からすれば全部ガンだった。
余命の話も改めてしてもらった。
今の状態の話を医者の口から丁寧にしてもらった。
そして俺もリクエストを出してみた。
今回、父さんは去年の暮れからこちらへお世話になっています。
入院したその日から3日も経たないうちに、
お医者さんから2度も「このままでは死にます」と告知されました。
でも頑張って回復していきました。
12月に入って「このままでは年を越せないかも…」と言われました。
でも外泊が叶い正月を実家で迎える事が出来ました。
秋から冬を越し、そして今やっと父さんは春を迎える事が出来ました。
もう充分頑張っているんだと思います。
先生から父さんの余命を伺いました。
これ以上の無理を父さんに望んじゃいけない、と家族で決めました。
それでも私は疑って自分なりに本を読み漁って調べてみました。
父さんのせん妄の具合とか食事量から考えたら、妙な納得感がありました。
今日の父さんは特に便意や腹痛を訴えてました。
もう腹水がたまってるのかな、とか思ったりしてます。
でも食事が極少量ですが摂れているので本当に便意かも・・・とか。
奇跡は誰にだって訪れるんだって、そういう希望は忘れていません。
そう心に置くのは単なる自分への慰めです。
現実的に見て奇跡は滅多に起きない事は分かってます。
でもというか、だからというか。
私は父さんにご褒美を上げたいんです。
2度も3度も『死』を宣告されて乗り越え、
難病にも耐えて、
秋から冬。そして春までたどり着いた父さんにご褒美をあげたんです。
父がずっと拘ったのは家です、家族です。
マイホームという夢を抱える父の年代。
もし可能ならば、父が夢見てまで手に入れた一国一城で逝かせてやりたい。
父も本望だと思います。
でもそんなタイミングは誰にも計れないとも分かっています。
だからもう1度だけでも外泊できないでしょうか。
無理なら日帰りでも良いんです。
1時間でも2時間でも良いんです。
せめて。
春を迎えられた父のその目に花を見せてやりたいんです。
花1輪、花びら1枚を見せてやるのはとても難しいですか?
もう・・・・・父には・・・・次の春は来ないんです・・・・
・・・・夏も来ないんです・・・・
泣いてそれ以上話せなくなってしまった。
今回の件で人前で完全に泣いたのはこの時が初めてだった。
ただただ父さんに折角の春を感じさせてやりたい。
そういう気持ちで先生方に懇願した。
今の病室は外も見えない通路側なんだ。
カーテンと天井だけを見つめてる。
ぼんやりと。
青い空を見せてやりたい。
桃色の桜を見せてやりたい。
まだ寒いかもしれないけど春の風を父さんにいっぱい浴びて欲しいんだ。
身体の具合は良くならんよそんな事では。
でも一瞬でも気持ちは良くなるんだきっと。
医者からの話は現実的だった。
自宅で逝かせる事は難しい、と。
変死扱いになって、死後に解剖にまわされる事になるらしい。
「これが日本の医療の現実です」
ID先生は悲しそうな表情だったけど強く言った。
いくら患者の病状や死因が確定しているものでも、
院外で死亡した場合そういうことになるらしい。
「解剖と言う理由でお父さんを傷付けられたくないでしょう。
頑張りきったお父さんに傷をつけたくない気持ちは我々も同じです」
ID先生には長く親身にお世話になっている。
だからその言葉を素直に受け取れてしまった。
更に。
点滴を刺したまま病院外へ出ることは
医療行為の継続なのでルール的にNG。
ただ口からのカロリー摂取ができれば
点滴を一時的に外しても数時間なら可能かもしれない、と希望を貰った。
「なるだけ希望に添えるようにやってみる」と。
「お子さんは良く調べられている。
わかってる分だけお辛いでしょう。
ご家族として当然の希望、ご自身で調べて知った現実。
その狭間で揺れるのは本当に辛いと思います。
我々は患者さんとご家族の希望に沿えるよう頑張りますから。」
ID先生はいつも優しい。
色々無理言ってるのはわかってるんです。
理想論言ってるのも分かってるんです。
でも、言わなきゃ始まんないから
言えない父さんに代わって言わなくちゃと思って。。。
なんかごめんなさい。
3月31日(火) 晴れ
嫁さんと一緒に病院へ。
休みなんだから家で体休めなよ、と言ったんだけど一緒に来てくれた。
「なんで週に1回しか会えんの?ええやんか。」
実に頭が下がる。
それも失礼な考え方なんだろう。
嫁さんにお願いして温かな食べ物を作ってもらった。
薄味に調整した刻みワカメのお味噌汁。
小さいワカメを更に小さくして、良く煮込んでとろっとろにしてくれた。
俺は父さんのリクエストに答えてイチゴを切った。
今日はお土産がいっぱいだ。
父さんはきっと喜ぶに違いない。
嫁さんを連れて行くときは電車で十条駅から歩く。
10数分掛かるちょっとした距離。
俺は歩くのがすこぶる遅いが嫁に手を引かれて歩く歩く歩く。
14:30
病室。
母さんが父さんに被さるように何かをしようとしていた。
「お父さん、身体の向きを変えたいんだって。」
すぐに掛けより俺が代わった。
無理しちゃダメだよ。
こういう時はナースコールで看護師さん呼ばなきゃ。
ぎっくり腰にでもなったら隣で寝ることになっちゃうんだからさw
母さんの中でなんとか“してあげたい”という愛情なんだと思った。
誰かにもう任せたくない。
自分が父さんに何かをしてあげたいという気持ちは俺と同じなんだよね。
嫁さんと一緒に父さんの体位変換を試みた。
流石に本職はこういう時に心強い。
俺に的確に指示してひょいとやってのけた。
父さんのせん妄は日々深くなっていってた。
少し眠ると言うので俺たちは席を外した。
3人で喫煙所へ。
母から聞いた話では隣の患者さんと上手く行ってないようだ。
隣の患者さんは結構ストレスがたまってるらしく最近ナイーブらしい。
話し声には気をつけよう。
母も疲れているようだったので夕方前に家へ帰した。
嫁と俺で夕飯までいた。
18:00
嫁さんが作ってくれたワカメのお味噌汁を一生懸命食べてくれたけど。。。
小さなおはぎで半分くらいの量しか食べられなかった父さんの食事量。
それが更に半分くらいになってしまった。
3ヶ月ぶりに会った先週のあの日。
伊豆で買ったタケノコの穂先を京風のお吸い物にして持って行ってあげた。
嫁さんが作ってくれたんだよ。
美味しいでしょ。
全部飲んでくれてた。
でもやっぱり一生懸命だったんだ。
俺の無茶なお願いに答えてくれようとしてたんだ。
今はもう食べる事もままならない。
自分の無力さ加減にうんざりした。
18:30
「・・・もう寝るから、・・・帰って良いよ・・・・」
父さんはかすれるような小さな声で言った。
睡眠導入剤と痛み止めを飲みたいというので飲ませた。
帰り際に何の気なしに父さんに軽く被さり抱きついた。
20数年ぶりだった。
冷たかった。
昔から汗っかきであつい身体だった父さんは冷たかった。
嫌だった。
嫁さんも父さんの手を握ってくれた。
「冷たい手だねぇ、大丈夫かい?折角の休みだったろうに今日はありがとうね」
途切れ途切れに一生懸命話し掛けてくれた。
また明日ね。ちゃんと寝るんだよ。
おやすみー!
帰りの駅までの道。
嫁さんは「私のことを気遣ってくれた。私よりも冷たい手やのに・・・」
そういって泣いていた。
うん。そういう父さんなんだ。
主治医IDさんと内科病棟の担当医師NIさん、
あと母さんと俺で話す機会を作ってもらった。
個室を借りてその4人皆が集まった。
CT画像で父さんの肝臓を見せてもらった。
1月と3月のを比べるとガンだらけになっているのが分かる。
兄からは「2/3がガンになっちゃってた」という話だったが、
俺からすれば全部ガンだった。
余命の話も改めてしてもらった。
今の状態の話を医者の口から丁寧にしてもらった。
そして俺もリクエストを出してみた。
今回、父さんは去年の暮れからこちらへお世話になっています。
入院したその日から3日も経たないうちに、
お医者さんから2度も「このままでは死にます」と告知されました。
でも頑張って回復していきました。
12月に入って「このままでは年を越せないかも…」と言われました。
でも外泊が叶い正月を実家で迎える事が出来ました。
秋から冬を越し、そして今やっと父さんは春を迎える事が出来ました。
もう充分頑張っているんだと思います。
先生から父さんの余命を伺いました。
これ以上の無理を父さんに望んじゃいけない、と家族で決めました。
それでも私は疑って自分なりに本を読み漁って調べてみました。
父さんのせん妄の具合とか食事量から考えたら、妙な納得感がありました。
今日の父さんは特に便意や腹痛を訴えてました。
もう腹水がたまってるのかな、とか思ったりしてます。
でも食事が極少量ですが摂れているので本当に便意かも・・・とか。
奇跡は誰にだって訪れるんだって、そういう希望は忘れていません。
そう心に置くのは単なる自分への慰めです。
現実的に見て奇跡は滅多に起きない事は分かってます。
でもというか、だからというか。
私は父さんにご褒美を上げたいんです。
2度も3度も『死』を宣告されて乗り越え、
難病にも耐えて、
秋から冬。そして春までたどり着いた父さんにご褒美をあげたんです。
父がずっと拘ったのは家です、家族です。
マイホームという夢を抱える父の年代。
もし可能ならば、父が夢見てまで手に入れた一国一城で逝かせてやりたい。
父も本望だと思います。
でもそんなタイミングは誰にも計れないとも分かっています。
だからもう1度だけでも外泊できないでしょうか。
無理なら日帰りでも良いんです。
1時間でも2時間でも良いんです。
せめて。
春を迎えられた父のその目に花を見せてやりたいんです。
花1輪、花びら1枚を見せてやるのはとても難しいですか?
もう・・・・・父には・・・・次の春は来ないんです・・・・
・・・・夏も来ないんです・・・・
泣いてそれ以上話せなくなってしまった。
今回の件で人前で完全に泣いたのはこの時が初めてだった。
ただただ父さんに折角の春を感じさせてやりたい。
そういう気持ちで先生方に懇願した。
今の病室は外も見えない通路側なんだ。
カーテンと天井だけを見つめてる。
ぼんやりと。
青い空を見せてやりたい。
桃色の桜を見せてやりたい。
まだ寒いかもしれないけど春の風を父さんにいっぱい浴びて欲しいんだ。
身体の具合は良くならんよそんな事では。
でも一瞬でも気持ちは良くなるんだきっと。
医者からの話は現実的だった。
自宅で逝かせる事は難しい、と。
変死扱いになって、死後に解剖にまわされる事になるらしい。
「これが日本の医療の現実です」
ID先生は悲しそうな表情だったけど強く言った。
いくら患者の病状や死因が確定しているものでも、
院外で死亡した場合そういうことになるらしい。
「解剖と言う理由でお父さんを傷付けられたくないでしょう。
頑張りきったお父さんに傷をつけたくない気持ちは我々も同じです」
ID先生には長く親身にお世話になっている。
だからその言葉を素直に受け取れてしまった。
更に。
点滴を刺したまま病院外へ出ることは
医療行為の継続なのでルール的にNG。
ただ口からのカロリー摂取ができれば
点滴を一時的に外しても数時間なら可能かもしれない、と希望を貰った。
「なるだけ希望に添えるようにやってみる」と。
「お子さんは良く調べられている。
わかってる分だけお辛いでしょう。
ご家族として当然の希望、ご自身で調べて知った現実。
その狭間で揺れるのは本当に辛いと思います。
我々は患者さんとご家族の希望に沿えるよう頑張りますから。」
ID先生はいつも優しい。
色々無理言ってるのはわかってるんです。
理想論言ってるのも分かってるんです。
でも、言わなきゃ始まんないから
言えない父さんに代わって言わなくちゃと思って。。。
なんかごめんなさい。
3月31日(火) 晴れ
嫁さんと一緒に病院へ。
休みなんだから家で体休めなよ、と言ったんだけど一緒に来てくれた。
「なんで週に1回しか会えんの?ええやんか。」
実に頭が下がる。
それも失礼な考え方なんだろう。
嫁さんにお願いして温かな食べ物を作ってもらった。
薄味に調整した刻みワカメのお味噌汁。
小さいワカメを更に小さくして、良く煮込んでとろっとろにしてくれた。
俺は父さんのリクエストに答えてイチゴを切った。
今日はお土産がいっぱいだ。
父さんはきっと喜ぶに違いない。
嫁さんを連れて行くときは電車で十条駅から歩く。
10数分掛かるちょっとした距離。
俺は歩くのがすこぶる遅いが嫁に手を引かれて歩く歩く歩く。
14:30
病室。
母さんが父さんに被さるように何かをしようとしていた。
「お父さん、身体の向きを変えたいんだって。」
すぐに掛けより俺が代わった。
無理しちゃダメだよ。
こういう時はナースコールで看護師さん呼ばなきゃ。
ぎっくり腰にでもなったら隣で寝ることになっちゃうんだからさw
母さんの中でなんとか“してあげたい”という愛情なんだと思った。
誰かにもう任せたくない。
自分が父さんに何かをしてあげたいという気持ちは俺と同じなんだよね。
嫁さんと一緒に父さんの体位変換を試みた。
流石に本職はこういう時に心強い。
俺に的確に指示してひょいとやってのけた。
父さんのせん妄は日々深くなっていってた。
少し眠ると言うので俺たちは席を外した。
3人で喫煙所へ。
母から聞いた話では隣の患者さんと上手く行ってないようだ。
隣の患者さんは結構ストレスがたまってるらしく最近ナイーブらしい。
話し声には気をつけよう。
母も疲れているようだったので夕方前に家へ帰した。
嫁と俺で夕飯までいた。
18:00
嫁さんが作ってくれたワカメのお味噌汁を一生懸命食べてくれたけど。。。
小さなおはぎで半分くらいの量しか食べられなかった父さんの食事量。
それが更に半分くらいになってしまった。
3ヶ月ぶりに会った先週のあの日。
伊豆で買ったタケノコの穂先を京風のお吸い物にして持って行ってあげた。
嫁さんが作ってくれたんだよ。
美味しいでしょ。
全部飲んでくれてた。
でもやっぱり一生懸命だったんだ。
俺の無茶なお願いに答えてくれようとしてたんだ。
今はもう食べる事もままならない。
自分の無力さ加減にうんざりした。
18:30
「・・・もう寝るから、・・・帰って良いよ・・・・」
父さんはかすれるような小さな声で言った。
睡眠導入剤と痛み止めを飲みたいというので飲ませた。
帰り際に何の気なしに父さんに軽く被さり抱きついた。
20数年ぶりだった。
冷たかった。
昔から汗っかきであつい身体だった父さんは冷たかった。
嫌だった。
嫁さんも父さんの手を握ってくれた。
「冷たい手だねぇ、大丈夫かい?折角の休みだったろうに今日はありがとうね」
途切れ途切れに一生懸命話し掛けてくれた。
また明日ね。ちゃんと寝るんだよ。
おやすみー!
帰りの駅までの道。
嫁さんは「私のことを気遣ってくれた。私よりも冷たい手やのに・・・」
そういって泣いていた。
うん。そういう父さんなんだ。
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